|
三嶋大社節分会で福男としてのご奉仕を、無事努めることができまして、感謝の気持ちでいっぱいである。
当日は天候に恵まれ、風もなくさらに気温も高く、春の到来を告げるほどの晴天でありました。
朝起きると本堂にお参りをして、阿弥陀さまそして法然上人(画像)に向かい、本日の豆撒きの旨を報告させていただき、寺を出発した。
役所、銀行、郵便局へと寺から街に出て行くときは、かならず大社の境内を横切らせていただくのである。自分の都合だけで、何の断りもなく通り抜けさせていただくことで、実に失礼なことである。そのお詫びというわけでもないが、参道の正面にくると、本殿に向かい拝礼をするのが、大方の人々のようにも思う。
さて、本日は別格である。三嶋大社の客殿で着替え、参道に列をなす。石畳を、一歩一歩足を運ぶと、普段とは違った心地よい緊張感が、私を支配している。そして参集した人々の視線が、痛いほどに注がれる。
本殿に到着すると、節分会が挙行される。宮司さまの祝詞を拝聴いたし、今ここに居ることのありがたさを痛感した。すべてを取り収められ、「お立ち下さいませ」の声に、ふと我に返った。祭り事の時間は、「いかほどであったろうか」、今少し、この神々しい緊張の世界に浸っていたい思いであった。
いよいよ福男として奉仕の豆撒きのため、舞殿へと向かう。知り合いの人が、手を振ってくれる。どう答えたら良いのであろうか。軽く微笑んで、「判りましたよ」のポーズとする。
まず、宮司さまが四方に撒き終えると、大太鼓の激しい音とともに、豆撒きの始まりである。侍者(副住職)が豆の入った枡を渡す。さあ、豆撒きの開始である。と同時に、聴衆が「私の所に頂戴」と手をあげる。すかさず天を仰ぐ。目と目が合うと、その人のところに撒かなければならないからである。77才であるが、豆撒きをする人30人ほどの中では、二番目に若い。よって、体力?に任せて、より遠くに撒くのである。人々が押しのけてまで豆を拾うとする姿は、決して美しいものではない。それを見たくないという思いも加わって、天を仰ぐ形の豆撒きの姿といえよう。
豆撒きは初めてであるが、じつは寺の大祭で紅白のお餅やお菓子を撒くのは30年以上の経験を積んでいる。そこから学習したのが、遠くに撒くこと、集まった人と目を合わさないことであった。
撒き始めて、思うほど遠くにいかない。すぐに原因が掴めた。右腕の袂に携帯電話を入れていたからである。取り出す暇もなく、撒き続けたのである。寺で撒くときには携帯は所持していなかった。
ほんの1分ほどのドラマである。
豆撒きや餅撒きのあと、たくさん拾った人が、年寄りや子供に分けている姿を、ほとんど見えなかったのが残念である。
天主君山現受院願成寺住職
魚 尾 孝 久
|