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「これは何の行列ですか?」
建久8年(1197)京都の八坂神社方面へ行列ができていたと言います。並んでいる人に、それを尋ねるとこう答えます。
「あの神社付近にある吉水(よしみず)の禅室で、比叡山から降りて来られたお坊さんが、有難いお話をしてくださっているそうな。」
「あの、智慧第一と讃えられた法然上人ですか?お目にかかりたい!」
そう願って、吉水の禅室へと向かったのは、当時福岡県飯塚市にある明星寺(みょうじょうじ)の三重塔(五重塔)の復興を任された聖光上人(しょうこうしょうにん)でした。塔の中のお仏像を仏師・康慶(こうけい)に依頼するため、京都へ三ヶ月滞在されていた時のことでした。
その禅室でお話をされていたのは、当時65歳の法然上人。都の人々が法話を拝聴するために列を成していました。しかし、お会いしたいと願う聖光上人の心中は「法然上人がいくら智慧深いといっても、私ほどではあるまい」と思われていたのではないかと伝わっています。
というのも、聖光上人は、22歳で比叡山に上がり、通常は12年間修行しなければならない所、優秀な為29歳で比叡山を降り、さらには九州の天台の聖地、油山(あぶらやま)のトップを任されている方でした。法然上人との対面された時は聖光上人36歳。油が乗り切った聖光上人、慢心の心があったといいます。いよいよ法然上人とのご対面です。
「あ、法然上人。私は九州油山より参りました聖光房弁長と申します。是非法然上人のご法話を拝聴したく…」
聖光上人が法然上人に問いかけると、
「油山で天台学を修めておられる方ならば、私がお伝えしているお念仏のみ教えを3つに分けてご説明いたしましょう。」
と、聖光上人の教養の深さに合わせてお話をされました。
「聖光上人よ。お念仏の種類も大きく分けると、摩訶止観の念仏と、往生要集で勧める念仏と、善導大師が明かした本願念仏と3つありますよね?」
聖光上人は、
「はい、そのようにございますね。」
法然上人は、
「私がお伝えしているお念仏は、心を静めて仏さまの姿を観る事を目的としたお念仏ではないのですよ。(摩訶止観の念仏)或いは、優れている人には難しい修行を、できない人には声に出すお念仏をといった、テキストを読んで理屈でわかっていくお念仏でもないのですよ。(往生要集で勧める念仏)私がお勧めしているお念仏は、善導大師のお勧めくださったお念仏です。つまり、自らの力ではなく、阿弥陀さまの本願力で生死輪廻の苦しみから救っていただくことをお伝えしております。」
そのように、三種(三重)のお念仏を明かし、勧めているのは極楽浄土へ往生することを目的とした称名念仏であることをお伝えされました。
「自分の力ではなく、阿弥陀さまの力で救っていただく」という概念は、自力で生死の解決していくことを比叡山で学んでおられた聖光上人にとって、法然上人の言葉は衝撃でありました。しかし法然上人のお人柄から発せられるそのお言葉は、この上ない説得力がありました。法然上人の深く広い知識は、まるで崑崙山(こんろんさん)の頂上を仰ぐようであったとも伝記にあります。
実は、聖光上人32歳の時、義理の弟の三明房(さんみょうぼう)が目の前で突然発作を起こし、生死を彷徨った(そのまま頓死したという説もあり)姿を見て、何もできず、うろたえてしまったことがありました。
「今まで、何事にも動じない境地になるために比叡山で修行や学問を積んできたのに…心が勝手に騒ぎ出す…自分もいつかこのようにもがき、いたみ、苦しむのか・・・」
生死の解決は、知識や学問ではどうにもならない。自らの力ではどうにもならないと感じた過去があったのです。そんな過去があったので、法然上人の「私たちの心は静まりません。だから阿弥陀さまの力で掬い取っていただくのです。」というお言葉にどれだけ救われたことでありましょうか。
お二人の初対面の談義は、午後2時から10時間にも及んだと言います。聖光上人の驕りの心はすっかり消え去り、「法然上人に永く仕えたい」という心が芽生えていきました。このことを縁に、聖光上人は、油山の学頭という地位を捨てて、法然上人の弟子となっていくのです。
「我大師釈尊は、ただ法然上人なり」と、聖光上人は言葉を残しています。この聖光上人こそ法然上人のお念仏のみ教えを、増やすことなく、減らすことなく、過たずに未来へ伝えた浄土宗の二祖さまであります。
私たちの命は有限です。だからこそ、いつか訪れる我が身の一大事のために、今からお念仏をおとなえするのです。二月は聖光上人御往生の月。南無阿弥陀佛と申す毎日を心がけましょう。
海福寺 瀧 沢 行 彦
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