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先日「お正月のお飾り作り体験」をお寺で開催しました。地元のお檀家さんで、お飾りを手作りでされる方がいらっしゃるので、ご指導をいただきました。
事前に藁を装飾する小幡(家内安全、交通安全)を購入。作業開始の前日には、藁を清めるために海まで向かい、海水につけました。清めるのと同時に、海水につけると塩分によって藁がしなやかになり編みやすくなるとのことでした。
当日になり、8名ほどの参加者の方々と実践。藁を三つに分け、それを三つ編みにしていきます。指導してくださる檀家さんの藁を編んでいく手捌きは、匠の技。見よう見まねに、皆さんが挑戦されました。当初はかなり困難な作業かと想定していましたが、お集まりになった方々はとても器用でした。40分〜50分程度で藁を編み、アーチ状に仕上げました。装飾として使う、ウラジロ・ユズリハの葉、橙はもっと年末になってからつけるとのことでした。余り早くにつけると、萎れてしまうためです。私の地域では、12月28日にお飾りをつけるのが風習なので、その数日前に付けることになりました。
「稲刈りを終え、もみを採った藁を無駄にしない」
その藁をお清めして、神様のお飾りとして使用する風習は、私たちに大切なことを教えてくださいます。時代はデジタル化が進み、古代の習わしが忘れ去られてしまうようになりましたが、その伝統は、神仏を敬うことを軸として、自然の恵みを最後まで大切にすることを教えてくださいます。
物価高、食品ロス、気温上昇、無常の風と、私たちの煩悩が渦巻く世の中をどのような道筋で進んでいったらよいのか、ヒントを頂けるような気がします。
私達には「わかる」という思考がありますが、これを3つに分けることができると、仏教では説きます。
一つ目が「聞いてわかる」ということであります。和尚さんのお話を聞いて「なるほど。解った」と思うのは、聞いて理解したからであります。二つ目が「理屈でわかる」ということです。そして、三つ目が「体験してわかる」ということです。では、この3つの「わかる」の中で一番大切なのは、どれでありましょうか?
聞くときは 解になるほどと思いつつ
下駄履く時は とうに忘るる
法話を聞いたときには「なるほど!」と思っても、帰りに靴を履いた瞬間に全部忘れてしまう。そんなことありませんでしょうか。なぜ忘れてしまうのでしょうか?それは知識として聞いているだけだからでありましょう。
スマートフォン認知症、二十代の忘れ物、外来患者も
以前にそういう記事がありました。認知症専門医が、最近二十代の外来が多い。原因はスマートフォンをやりすぎて、情報収集過多で、脳がオーバーヒートしているからだとありました。
長く続けると脳に悪影響があるそうです。生活を便利にし、豊かにするものだと信じている道具に自分の体が犯されてしまうというのは、何とも矛盾したことであります。
つまり「わかる」というのは、聞いてわかった、頭の中でわかったということではなく「体験してわかる」ということが大事なのです。
法然上人のお念仏のみ教えも、実際に「南無阿弥陀仏」ととなえることで、その有り難さがわかってきます。「自分は講義を聞いたから知ってる。本で読んだから理屈がわかった」というのは本当の意味で体得したことにはならないのです。返って、自分は智者であると勘違いして、となえなくなってしまうことにもなり得るのです。
御年八十八才になられたお飾りの先生は、元バスの運転手さん。カーナビがない時代に、乗客を安全に送迎されていました。
頭ではなく体で覚えていく道を「お飾り作り」を通じて、次の世代へ繋げようと働きかけてくださっています。
お念仏、もまずは声に出して体験してみましょう。
海福寺 瀧 沢 行 彦
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