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法然上人のお弟子さまに禅勝房(ぜんしょうぼう)とういうお方がいらっしゃいました。
遠江国(とうとうみのくに)現在の静岡県の西部の方で、現在の周智郡森町にある蓮華寺さまのご住職でもありました。禅勝房さまは、天台のみ教えを学ばれておりましたが、「自分自身の才覚や器では、自らの力で煩悩を絶って迷い苦しみの境涯を離れていくことはできない・・・」と悩まれていました。
その最中「あの一ノ谷の合戦で活躍した、熊谷直実が法然上人より教えを授かった。」という噂を耳にします。早速直実を尋ねると、直接法然上人と面会することを勧められ、紹介状を書いてくださいました。禅勝房は、法然上人にお会いするために京の都へ上洛しました。
すると、法然上人が住んでいた東山の吉水の地の小さな草庵は、多くの人が集まっていました。「身分性別年齢職業を問わず、誰もが極楽浄土へ往き生まれていくことができます」法然上人の言葉にお念仏の声が響き渡っていきました。禅勝房も法然上人を尋ねました。法然上人は当時七十歳、禅勝房は当時二十九歳でした。
早速禅勝房が、「法然上人。道理に暗く、煩悩を抑えることもできない罪深きものでも、極楽浄土へ往き生まれることができる教えがあると聞きましたが、その理(ことわり)をお聞かせください」と自身の胸の内を語りました。
すると法然上人は、次のようにおっしゃいました。「その極楽浄土の主(あるじ)であります阿弥陀さまこそ、何事も道理に暗く日々罪深いもので、諸々の仏菩薩から救いの門を閉ざされてしまった人々を、いともたやすく助け救おうという誓願をたてられ、ありとあらゆる者を迎いとってくださる仏さまであります。」とお答えになられました。「阿弥陀さまが自身の力で救うと仰せになっている。だから間違いがない」禅勝房は、自力で生死の苦しみから離れていくということが仏教の常識と学んでいたので、法然上人の「本願のむなしからざるいわれ」という「さとりの道から救いの道への転換の言葉」に感銘を受けたのです。
この日を縁として法然上人のお弟子さまとなっていきました。禅勝房は、法然上人の1番近い所でお給仕の仕事をされていました。その甲斐あっていつしか、阿弥陀さまの本願に対する疑いもなくなり、法然上人の元を離れ、故郷である遠江の国へ帰ろうと決意しました。
法然上人は旅支度の整った禅勝房に花向けの御訓として、「さとりの道は智慧を極めて生死を離れていくものだけれども、お念仏のみ教えは、愚に還って極楽へ生まれる心得であります」と授けられました。
さらに、故郷へ帰った禅勝房には、このようなエピソードが残っています。法然上人のお弟子である隆寛律師が「嘉禄の法難」といって、お念仏の弾圧がありました。その際に東国へ配流となります。その途中、遠江の国へ留まることがありました。その噂を聞いた人々は、「法然上人のお弟子さまが来られる」と大勢集まってきたといいます。隆寛律師は、その土地の人々にお念仏のみ教えを伝えたといいます。
隆寛律師は「そういえば、この土地に禅勝房がおられるのでは?」土地の人に尋ねます。「私と同じ法然上人の弟子となられた禅勝房というお上人が、この近くに住んでいらっしゃるはずなのですが、ご存じですか?」このように問うと、「いや、どうでしょうか。そのようなお坊さんはいらっしゃらないですね・・・あ、ですが、叩き大工さんで、ゼンショウと名乗っていらっしゃる方はおられますよ!」隆寛律師は「その大工さんを、呼んでください!」とお伝えすると、すぐにその大工さんが尋ねてこられました。一目でその方が禅勝房さまであることがわかりました。隆寛律師八十歳、禅勝房五十四歳。弾圧等、風雪に耐えたお二人の再会でした。
禅勝房は、京都での修行の徳を隠すどころか、僧侶の衣も脱ぎ捨てて、蓮華寺で番匠(大工)を生業として、人知れずひたむきな念仏生活を過ごされていたのであります。
隆寛律師が、もの静かに申されました。「あなたにお目にかかって、息を引き取られた法然上人のお言葉を思い出しました。『禅勝房は、自分だけが信仰に入り、自分だけが助かればいいというような者ではない。必ず多くの方を教化してくれるだろう』」
禅勝房は、この言葉に涙したといいます。
遠州で 大工となるも 南無の声
それ以降、禅勝房は再び浄土信仰の案内人として人々にお念仏のみ教えを伝えていったそうです。正嘉二年(1258)八十五歳の生涯を遂げ、最後は端座合掌、高声念仏(自分の耳に聞こえるほどの念仏の声)を三遍となえて正念往生を遂げられました。
【参考資料】
「お念仏のともしび」 浄土宗静岡教区布教師会
海福寺 瀧 沢 行 彦
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