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−真如堂と結ばれた伊勢守貞国公と観譽祐崇上人−
皆さんは自分のお寺のお十夜法要に参加されたことありますか?実は、室町時代から行われている日本の伝統的法要なんです。
十夜会(じゅうやえ)は正式には、「十日十夜別時念仏会(じゅうにちじゅうや べつじねんぶつえ)と言います。つまり、「南無阿弥陀佛、南無阿弥陀佛」と沢山のお念仏をおとなえする法要が十夜会なんですね。
歴史を遡ると、発祥は京都なんです。六代将軍足利義教(あしかがよしのり)(1394〜1441)の執権平貞経(たいらのさだつね)公の弟平貞国(たいらのさだくに)(1398〜1454)が「なんて世の中は思うようにならない苦しい場所なんだ」と世の無常を感じ、京都の真如堂(鈴声山真正極楽寺)の阿弥陀如来さまの御前で十日十夜、お念仏をおとなえしたのが始まりと伝わっています。
資料によれば、貞国公は若い頃から阿弥陀さまの誓願を深く信じていたそうですね。これは推測ですが、「儚いこの世ではあるけれども、南無阿弥陀仏と申し続けていれば後生生死輪廻を繰り返すことなく、西方極楽浄土へ往生させていただける。それは阿弥陀さまがお誓いくださっていることだから間違いないことなんだ」と、きっとそのように阿弥陀さまの「我が名を呼べば必ず救う」というお誓いを深く信じておられたのでありましょう。
そんな貞国公が、この世の儚さや虚しさを痛感し、地位も捨て出家しようかと真如堂で三日三夜お念仏をおとなえし続けたことがあったそうです。すると三日目の夜、不思議なことが起きたのです。なんと、夢枕に僧侶の姿をした方が現れたのです。そして、こう言ったそうです。
「心たに たてしちかひに かなひなは よのいとなみは とにもかくにも」
これはどういうことかと言いますと、
「あなたが阿弥陀如来の超世の願を信じているならば、来世は必ず救われる。だから今の世のことは三日間待ちなさい」ということです。早く出家して、何もかも手放したいと思っていた貞国公でしたが、出家を留まったそうです。すると、兄である貞経公が大変なことになってしまいます。永享三年(1431)将軍足利義教の上意に背いて突如その地位を解任されてしまったのです。兄貞経公は、吉野に謹慎をすることになりました。
そうなると、家を継がなければならないのが貞国でありました。そこで「は!」と気づくのです。
「あ、もしあの夢のお告げがなかったら、兄の跡を継ぐどころか、家が絶えてしまうところだった…」と真如堂でのお告げが家を守ってくださったのだと受け止めたのでありましょう。感謝の念を抱き、さらに七日七夜の念仏の行を勤められたそうです。
よって、合計十日十夜お念仏をとなえ続けたことが十夜会(お十夜)の始まりとされています。
家督が継げたという所が強調されがちですが、そうではないと思うのです。平貞国公は、この世の汚れから厭い離れて行きたいとお念仏をもうし続けていたのです。よって、お告げも「阿弥陀さまが、出家を極楽浄土へ往生する為の条件としていない、その人の状態や場所、季節がこうでなければならないとも言っていない。ただ、南無阿弥陀仏と申し続けることが仏の御心にかなった行なのですよ」と弥陀の本願を正しく夢枕のお坊さんは教えてくださったと受け取りたいものであります。
さらにお十夜が全国に広まった縁起は鎌倉にありました。貞国公の出来事より70年ほど経った明応四年(1495)に鎌倉の光明寺第九世観譽祐崇上人が後土御門天皇に宮中に招かれ、21日間『阿弥陀経』の講義をされました。その際に、真如堂に伝わる引声(いんぜい)阿弥陀経(引声念仏)の法要を勤めました。そのような縁により、国の許可を得て鎌倉の光明寺においてもこの法要が勤められるようになり、全国に広まっていきました。
昨年の11月15日、真如堂の十夜法要にお参りさせていただきました。すると、直径30センチ程の鉦を打ちながら念仏に節をつけおとなえをする男性の方々が本堂にいらっしゃいました。特設された高座の上で横並びに正座をされ、それぞれ音階の違う鉦を打ち鳴らすそのお姿は、古の伝承を目視できた印象でした。打ち方も「笹づけ」「地念仏」など約二十種類に及ぶそうです。そのお念仏の節回しは独特で、秋の夜空に心地よくお念仏の声が響き渡っていました。このお念仏の響きが全国へと伝わったのだなとしみじみ感じたのであります。
亡き人の追善供養とともに、「わが命の行く末」をしっかり極楽浄土と定めていくために、お十夜法要でお念仏をおとなえして頂ければと願う次第であります。
【参考文献】
真如堂パンフレット
『真如堂縁起』
『大日本仏教全書(新版)』
海福寺 瀧 沢 行 彦
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