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「昔々あるところに、おじいさんとおばあさんが住んでいました。おじいさんは山に芝刈りに、おばあさんは川へ洗濯にいきました。おばあさんが川で洗濯をしているとドンブラコッコ、ドンブラコッコと、大きな桃が流れてきました・・・」寝付けない時に親に絵本を読んでもらう。いつしかスヤスヤと眠りにつく子供。親の声でおとぎ話を聞きながら眠りにつく安心感は、子供にとって何よりも幸せな時間でありましょう。
おとぎ話の「とぎ」は、「伽(とぎ)」という字を書きます。これは、古代インドのサンスクリット語(梵字)で「看病する人、世話する人、寝室で付き添う人」といった意味があります。したがって、お伽話という言葉には「寝る時に寄り添いお話をして寝かしつけてくれる人」という意味があるのです。
他にもこの「伽」を使う言葉に「夜伽(よとぎ)」というものがあります。「夜伽」とは、夜を通して亡くなった方の近くに寄り添い、お線香を絶やさないようにして、邪悪なものから守るという意味があります。つまり、「夜伽」はお通夜の語源ともなる言葉です。そのような意味合いから、私たちは日が暮れた時刻に、お通夜をお勤めして、亡き人に手を合わせるのです。故人が最後に迎える夜を寂しくないように、また守るために遺族、友人で過ごすのです。
私も祖父を亡くした時、まだ保育園の園児でしたが、近隣のお坊さんに「今晩は、お念仏を絶やさず木魚をうちながらおとなえするんだぞ」と言っていただいたことが記憶に残っています。子供心に「おじいちゃん、一人で寂しくなると可哀想だから近くにいてあげよう」と幼心にそう思いました。私は祖父の葬儀で命の尊さと、命の行き先を教えていただきました。
近年は、儀式を簡略化するような風潮がありますが、それは、通夜や葬儀を一連の形式としか認識できていないからでありましょう。それでは、亡き人の命の行き先がどのようになるのかを知ることがかないません。
法然上人のお言葉に
人の心さまざまにして、ただ一筋に夢幻の憂き世ばかりの
楽しみ栄えをもとめて、すべて後の世をも知らぬ人も候
とあります。「人の心は様々で、夢幻のように儚いこの憂き世での楽しみや栄華だけを追い求め、後の世のことなどまるで気にも留めない人もいるのです。」と仰せになっておられます。
Q 私たちは少しでも生きている間に「豊かな暮らしをしていき
たい。自分の願いを叶えていきたい」と思いを巡らすのは当
然のことであります。しかし法然上人は、人の心が世間の風
潮ばかりに気をとられていて、後の世のことを考えていない
ことを嘆いておられます。それはなぜでしょうか?
A それは「人は命終えたら生まれ変わり死に変わり、輪廻を繰
り返す」とお経に示されているからです。生前の行いによっ
て私たちが命終えた後の行き先が変わると、仏法には明かさ
れています。悪い行いをすれば、苦しみの世界へ、善い行い
をすれば、安楽な世界へと生まれ変わっていくとあります。
では私たちの命の行き先はどうなのでしょうか?自分の都合が悪くなって、嘘をついてしまったり、八つ当たりしてしまったり、したことはないでしょうか。知らず知らずのうちに人を傷つけてしまったことはないでしょうか。そんな私たちの命の行き先は仏教で明かされる道理によると、決して善い場所とは言えないのであります。
ですから法然上人は「後の世の事は私たちの力が及ばないから、阿弥陀さまのお力によってお救いいただこう」と私たちにお勧めになられているのです。
その生死の世界から離れていく手立てがお念仏であります。お念仏、南無阿弥陀仏は、阿弥陀さまが私たちを生死輪廻の世界から救うために残してくださった手立てであります。阿弥陀さまは「我が名を呼ぶもの、南無阿弥陀仏ととなえるものを、一人も見捨てることなく生き死にの輪廻の世界から救う」と誓われています。その阿弥陀さまの御名、我が名を呼ぶ行いがお念仏であります。
よって私たちは阿弥陀さまのお言葉に従って、南無阿弥陀仏と申し続けていけば、生死輪廻の世界を離れて、極楽浄土へ往き生まれることができるのであります。
そのような命の行き先があるにも関わらず、世間の夢幻に心が奪われていることに法然上人は悲しまれているのであります。
秋のお彼岸も近づいて参りましたので、「伽」の心を忘れずに、ご先祖さまに寄り添ってお念仏申してお過ごしください。
海福寺 瀧 沢 行 彦
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