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夕涼み 花火線香の 匂ひ哉
正岡子規
これは、正岡子規が夏の夕刻、涼しくなってきたところで、線香花火の匂いがする空間を表しています。あの線香花火がポトリと落ちるあの瞬間に、何か切なさを感じるのは何故なのでしょうか?それは、自分自身の命、あるいは、失った大切な方の命を重ね合わせているからではないでしょうか。
日本の夏の風物詩といえば花火でありますが、観光地である熱海も年間に何度もこの花火大会が行われています。ちなみに平成11年のデータでありますが、花火大会1回にかかる経費は1655万円(公称5000発)で、その経済波及効果は5億6100万円であるとテレビで放送されていました。経済効果とも密接に関わっている花火でありますが、実は古くから慰霊のために行われてきたものであります。
日本で初めて花火を見た人は、どなたかご存じでしょうか?それは、伊達政宗や徳川家康公であるといわれています。江戸時代に書かれた「駿府政事録」「宮中秘策」「武徳編年集成」の記述によると、慶長18年(1613)8月3日にイギリス国王使節のジョン・セーリスが家康公に鉄砲や望遠鏡を献上した後、駿府城で花火を立て家康がそれを見物したとあります。これを機に家康公が観賞用の花火を作らせるようになったのが、日本における花火の起源であるといわれています。
花火大会としては、享保18年(1733)5月28日、江戸時代に隅田川で行われた水神祭(通称・両国の川開き)が日本最古といわれています。
江戸時代中期に飢饉が起こりました。後に享保の大飢饉といわれたこの災難は約200万人が飢えに苦しんだといいます。徳川吉宗は死者の供養、災厄退散の願いを込めて、この両国の川開きに合わせ花火を打ち上げたそうです。これから江戸庶民の中で花火大会が定着し、全国でも行われるようになったそうです。
ちなみに、花火が上がった時に「たまや〜、かぎや〜」と声をかけるのは江戸時代の花火師「鍵屋」と暖簾分けした「玉屋」の名前からきています。川の上流を「玉屋」下流を「鍵屋」が担当し二大花火師が競演しました。これを応援するためのかけ声が「たまや〜・かぎや〜」だったのです。しかし天保14年(1843)「玉屋」の出火で大火事となり、玉屋は廃業しました。そのように、「玉屋」は「鍵屋」から暖簾分けをして存在したのは35年ほどであったそうです。その後も鍵屋は続いていくのですが、なぜか花火のかけ声が「たまや〜」の方が有名です。それを物語る「狂歌」にこのようなものがあります。
橋の上 玉屋玉屋の声ばかり なぜに鍵屋と いわぬ情なし
花火の技術がとても勝れていたのに、たった一代で店を閉めることになった。その様子は「まるで一瞬で消えてしまう花火のようであった」という「玉屋」に情を込めた歌が残っています。当時の江戸っ子は、玉屋の面影を忍び「たまや〜」と夏の夜空に声を響かせたのであります。
そのような歴史ある日本の花火でありますが、大切なのは亡き人の慰霊、供養の意味合いが元であるということです。お盆にはご先祖様が帰ってこられるから家族でお墓参りをして、自宅にはお精霊棚を設けて迎え火を焚く。そしてお盆の最終日には送り火を焚く。毎年8月16日に京都で行われる「五山の送り火」も先祖の霊を送る行事です。真夏に花火が行われるのは、諸々霊位の追善供養の意味があるからなのです。
日本の文化には四季折々の風情ある風習がありますが、それは、ただ現世を楽しむということではなくて、亡き人のご供養があった上で成り立っていることを私たちは心に留めなくてはなりません。
亡き人のためとて勤む追善は 生ける我が身の教えなりけり
線香花火のように儚い私たちの命であるからこそ、亡き人のご供養を通じて、私たちの命の行き先を定めていくのであります。皆様も今年の夏もお世話になっている菩提寺様を中心に、ご先祖様の面影を偲び、夏の夜空に「南無阿弥陀仏」と声を響かせお過ごしください。その声は必ず阿弥陀さま、大切な亡き人へと届くことでありましょう。
海福寺 瀧 沢 行 彦
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