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雨風に 耐えて上向く 立葵
雨風に耐えて咲くタチアオイを詠った一句です。梅雨に入りまして、じめじめとしてまいりましたが、タチアオイは5月頃に咲き始め、てっぺんまで咲くと梅雨明けすると言われています。
梅雨明けを教えてくれる植物がタチアオイでありますが、私たちが迷い苦しみから離れていく手立てを教えてくださるのがお経であります。そのみ教えが集約された「三種の大蔵経」が、今年ユネスコ「世界の記憶」に登録をされました。
今年の4月17日、パリで開催されたユネスコ(国際連合教育科学文化機関)で「世界の記憶」に大本山増上寺が所蔵する三種の大蔵経(だいぞうきょう)、通称「三大蔵(さんだいぞう)」が国際登録されました。
大蔵経一切経(だいぞうきょういっさいきょう)とは、仏教に関する文献の集大成、百科事典のことです。中国では、およそ2世紀〜11世紀にかけてインドの仏典を漢文に翻訳する作業が行われていて、膨大な漢訳経典が成立しました。唐時代の仏典目録『開元釈教録(かいげんしゃくきょうろく)』(730年)には、大蔵経は5048巻とされています。
10世紀(宋時代)に木版印刷が初めて製作されると、肉筆の写経から印刷の版経へと移行し、日本においても大蔵経が刊行されました。内容は、お釈迦さまの言葉を伝える「経」、修行者の行動規範「律」、お経の解説である「論」という3つのパートに分けられています。
そして今回ユネスコに登録された「三大蔵」とは、
宋(そう)版5342帖(12世紀刊)
元(げん)版5228帖(13世紀刊)
高麗(こうらい)版1357冊(13世紀刊)
の三種のことで、総数は約12000点にもなり、すべて国の重要文化財に指定されています。
形状は、宋版と元版は折帖(おりじょう)で、高麗版になると冊子(線装本(せんそうぼん))になっています。
では、この三大蔵を寄贈された方は、どなただったのでしょうか?
それが、徳川家康公(1542〜1616)でした。家康公は、天正十八年(1590)江戸に入府の際には、大本山増上寺第十二世源譽存応慈昌(げんよぞんのうじしょう)上人(1544〜1620)との出会い、増上寺を徳川家の菩提寺としました。各大蔵経は、各地の寺院に所蔵されていましたが、17世紀初頭に、家康公が領地と引き換えに、これらを収集し増上寺へ寄贈したといいます。その証拠に「三つ葉葵の紋の朱印」が捺(お)されています。
そして、江戸の町作りを押し進めるなか、江戸城拡張に伴い、慶長三年(1598)に増上寺を今の地に移しました。その際に、三門(三解脱門)本堂(大殿)などのお堂が整えられました。
時を経た昭和20年(1945)には東京大空襲により、増上寺の大伽藍の多くが焼失。しかし、奇跡的に三解脱門と経蔵だけが残ったのであります。そのような壮絶な時代の荒波を経てこの「三大蔵」は奇跡的に令和を迎え、諸大徳上人並びに諸大学教授の方々のご苦労の末、ユネスコ登録まで至ったのであります。
草も木も枯れたる野辺に ただひとり
松のみ残る 弥陀の本願(観智国師作)
このお歌は「弥陀の本願の御詠歌」と呼ばれるものです。「すべての草木が枯れてしまった野辺に、松だけが残るように、すべての教えが滅してしまっても、阿弥陀さまのお念仏のみ教えだけはいつまでも残り続けるのですよ」という意味となります。
作者は徳川家康公が師と仰いだ存応上人(観智国師)です。存応上人が家康公に十念を授けて後、このお歌を吟じたといいます。
「他のすべてのお経が無くなってしまった後も、唯一この『無量寿経』だけを百年間この世に留めよう」という『無量寿経』に示されるお釈迦さまのお言葉が背景にあります。阿弥陀さまの寿命は無量寿であるから、すべてのみ教えがすたれてしまっても、お念仏のみ教えだけは残るのです。よって「いつまでも尽きない阿弥陀さまと極楽浄土」の存在を存応上人はお歌に込め、家康公へお十念と共に伝えたのであります。
天下を得たとは言え、戦乱の世に翻弄された家康公にとって、人を選ばず生死輪廻の世界からお救いくださる阿弥陀さまの存在はどれだけ大きかったことでありましょうか。
昭和の時代にはまた戦が起きてしまいました。その中で、松のように残った三大蔵はまさに「他のすべてのお経が無くなってしまった後も、唯一この『無量寿経』だけを百年間この世に留めよう」というお釈迦さまのお言葉そのものと感じざるを得ません。
家康公はこの三大蔵を「平和を願って寄贈した」そうです。「争うのではなく、分かち合う」それを生前に学ばせていただくのも、ご先祖さまの供養をさせていただく菩提寺であります。
共々にお念仏を申しながら、未来の平和を念じて参りましょう。
海福寺 瀧 沢 行 彦
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