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美術の瀬川真先生をご存じであろうか。戦時中から昭和43年まで東部地区で中学校の美術のヘ員として、教鞭をとられていた。教えを請うた人も、まだまだご健在であろう。
瀬川先生は、明治40年10月17日、三嶋大社の西隣にあった「魚半」という料亭のご子息として生まれる。沼津中学校(現在の沼津東高等学校)卒業、「魚半」の常連客であった画家の影響を受け、画家の道を志すが、父親の反対にあう。
その当時、教えを請うため臨済宗妙心寺派の龍澤寺に頻繁に通い、玄峰老師の教えを請い、美術学校(多摩美術大学)に進学し卒業後、美術のヘ員となられた。
瀬川家は、拙寺のお檀家さんであり、時代は不明であるが、瀬川家から寄贈された屏風がある。銘は「松園」とあり、本物の上村松園のものであったら大変なことになるが、贋作であった。「魚半」に出入りしていた画家のものであろうか。
先生は、晩年ヘ員のかたわら鬼の絵を描き続けた。その数は、数百匹にのぼる。すこし紹介しようと、メルマガに掲載させていただく。
作品A
「大津絵の筆に做いて宿々の夢又夢を筆にまかせん」とあることから、大津絵の鬼が原点であろう。
作品B
「財寶も名誉も官位も不用なり。唯だこの道を得るを願へど」この道が「?」であることが面白いところである。
作品C
和尚「「道?」道などあるものか、道を求むれば道に迷ひ、法を求むれば法に迷うふ。女を求むれば、女に迷ふ。お前ヘソ有るかな?」
雲水「有ります、有ります」
作品D
居士問ふ「猫子に仏性有や?」
作品E
チュ公「サアサアもっとお飲み下さい。過ぎちや毒でも、過ぎねば藥で」
作品F
「酔う程に鬼も安木の歌舞り」
いよいよ鬼の登場であるが、紙面の関係で、後日に。
ところで、多摩美術大学卒業作品「風俗人物図」も寄贈されている。
【龍澤寺】
白隠禅師の開基。杉林に囲まれた静寂の地にあり、禅宗の道場として有名。
紅葉の時期、ツツジの時期の庭園は一段と美しさを増します。
また、毎年11月23日は観楓祭が行われます。この日は、1年に1度の一般公開の日で、掛軸などの貯蔵品の虫干をします。(三島市HPより)
【山本玄峰老師】
湯峰温泉の芳野屋に生誕、遺棄されていたのを岡本夫妻に救われ、芳吉と命名され養育される。13歳から、家業である農林業を手伝い始め、16歳で筏(いかだ)流しとなって熊野本宮と新宮の間を往復。17歳の頃、岡本家を継ぎ、結婚する。
19歳の時、目を患い闘病生活を続けるが、失明を宣告される。失意の中、弟に家督を譲り、妻と離婚して僅かな旅費を持って新潟・北陸と流浪の旅へ出る。7回目の四国遍路88カ所の霊場巡りの時、33番臨済宗のお寺「雪渓寺」の門前で行き倒れとなったところを山本太玄和尚に助けられ、その弟子となり厳しい修行の道に入る。25歳で出家し、玄峰の号を受け、明治34年、太玄和尚の養子となり、「雪渓寺」の住職となる。
再度、京都の圓福寺で宗般老師のもとで7年間の厳しい修行を受ける。翌年、龍沢寺の住職となり復旧に着手。さらに松蔭寺の住職を兼務した後は、アメリカ、イギリス、ドイツ、インドなどを歴訪。他にも様々な寺の復興に力を注ぎ、昭和11年旧満州国の新京(現在中国の長春)に妙心寺を開創する。
昭和20年、「終戦の詔勅」にある「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び」の文言を進言。また、新憲法における天皇の地位については、「天皇は空に輝く象徴みたいなもの」と、天皇の権力で派閥の抗争を始めることを戒められたという。亡くなる直前の昭和36年、「玄峰塔」の大字を揮毫(きごう)する。
【上村 松園うえむら しょうえん】
1875年〈明治8年〉4月23日 - 1949年〈昭和24年〉8月27日)は、日本画家。気品あふれる美人画を得意とした。1948年に女性として初めての文化勲章を受章。息子に日本画家の上村松篁。
天主君山現受院願成寺住職
魚 尾 孝 久
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