桜を楽しみ、新緑の時期を迎えた。季語に「山笑う」とあるが、境内の草木が芽吹き新緑の装いである。よく観察すると、雑草も色を添えている?
願成寺には、山門代わりの大きな楠2本が人々を迎える。三島市では一番大きな楠で、樹齢300年ほど、平成8年には、市の天然記念物に指定されている。
ご承知のように常緑樹であるが、落葉がないわけではなく、新緑のころこそ同時に落葉のシーズンである。楠の葉は、我が子の新芽を確認してからの落葉となるのである。おおかたの人は燃える新緑に目を奪われているが、管理する木の下にも目がいってしまう。その量は、箒で掃くのではなく、熊手でかき集めるのである。お手伝いの人の手を借りての清掃となる。また楽しからずや。
竹もまた今が落葉の時期である。寺の本堂の傍に竹藪がある。昭和の初めごろ、総代さんが竹の子が取れるからと、植えてくれたという。ありがたいことに、毎日が竹の子のご飯であり、文学講座など人寄せには、竹の子ご飯の振る舞いとなる。
やはり楠のごとく、今が落葉の最シーズンである。葉が薄く小さい竹の葉は、雨が降るとペェッタリと地面に張り付いてしまうのである。何ともやっかいな葉であることは、一般の人は知るよしもないことである。
願成寺菜園に目を向けると、ネギが頭立ちしてネギ坊主の最盛期となる。みなが、坊主が出てきたら終わりだという。ネギは花を咲かせるために、すべてのエネルギーを坊主に注ぐ生殖活動に入る。よって葉は固くなり、食用には向かなくなる。人々は決して種を取ろうとはしない。無残に取り捨てられるだけである。
ネギは坊主をとられると、生殖活動から成長活動へとスイッチが切り替えられ、また柔らかいネギ達の再来となるのである。
「ネギ坊主が!」と、摘み取られ捨てられていくことが、坊主である私には少し気にかかることではある。
蜜蜂にとっては、蜜を集める大切なところであることが、いささか救いになるように思う。
【山笑う】
「山笑う」は、春の山の草木が芽吹き、明るい様子を表す俳句の季語です。具体的には、春の暖かさで花々が一斉に咲き、木々が芽吹き、地面からは山菜が生えてくるなど、にぎやかな山の様子を擬人化して「笑う」と表現しています。( AI による概要)
【また楽しからずや】
「楽しからずや」は、「なんて楽しいことだ」や「なんと楽しいことだろう」といった意味の反語です。「〜ずや」は「〜ないだろうか」という疑問形ですが、ここでは「なんと〜ではないか」と強調して肯定的に表現しています。
天主君山現受院願成寺住職
魚 尾 孝 久
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