竹馬や いろはにほへと ちりぢりに
久保田万太郎作
子供達が竹馬で遊んでいる様子を表した久保田氏の一句です。「いろはにほへと」というのは「ひいふうみいよう」と同じで、数えているということです。「子供達は何人いるのかな?」とその様子を見守っている周りの人と、遊び終わった子供達が、それぞれの家へ帰っていく姿が表現されている俳句です。
令和の時代、外でお子さんが神社や空き地で遊んでいる様子を見ることはほとんどありません。駄菓子屋さんや、おもちゃ屋さんも近くにはありません。その為か、お子さんがお小遣いを使ってお買い物をする経験ができなくなっているといいます。
そんな時代となりましたが、私のお寺は第二十二世瀧沢本念上人の頃より、地域のお子さんが集まる場所でありました。
海福寺は、江戸時代に幕府の文教政策で夜学として「寺子屋」を開き、地域の子供達に読み書きを教えていたそうです。そして、大正十年より「寺子屋」を「海福寺・歓喜光園」と称して創設し、夏期には、大本山増上寺、伝通院の臨海学園施設にも開放し、当時学校教諭であった第二十三世瀧沢賢應上人と共に青少年の教化に当たったといいます。昭和に入ると「歓喜光教園」と称し日曜学校を開設。昭和十九年には太平洋戦争末期からの戦中戦後の中、政令のもと学童疎開の場に寺院を開放。昭和二十二年一月に保育所、歓喜光童園を創設し、社会教育活動の組織化を行いました。
学校教諭であった第二十四世瀧沢行雄上人の代には、児童、生徒、会員数が合わせて200名を数え、下多賀、和田木、網代等より通園していたそうです。戦後の社会は食糧難で大人は働くことで精一杯で、子育てをしていくことが大変な状態であった。その時に、賢應上人や行雄上人が地域のお子さんの教育活動に心血を注いだのであります。
開園当初は、園舎もなく、海福寺の本堂の一部を、畳を外して板張りにしそこで保育をはじめたそうです。資金もなく欲しいものが手に入らず、雨戸をはずし紙芝居の舞台として利用したり、幅の狭い椅子のような物を机として使用したといいます。子供のおやつも小麦と脱脂粉乳を混ぜてこね、瓶のふたで形抜きして油であげて作ったと記録があり、当時の園長先生が「それが結構美味しかったと思い出に残っている」と文章として残っています。
時代の流れの中、平成元年三月十二日「歓喜光童園記念行事」として花祭りと三上人報恩法要として盛大な稚児行列を勤めたことを節目に、同月三十一日をもって閉園をしたのであります。
私も歓喜光童園の卒園生であります。砂場で遊んだり、ブランコで遊んだり、懐かしい思い出が沸き起こってきます。その遊具や園舎があった場所は海福寺の駐車場となり、その姿を見ることはできません。
しかし、最近多くのお子さんがお寺に遊びに来るようになってきました。そのきっかけが、私の母が長年行っている「子供お琴教室」です。歓喜光童園の頃から続いている花祭りは、現在5月に行われています。その際に、地域のお子さんがお琴の発表をします。それに向けて毎週小学生のお子さんが十数名お稽古を続けています。お寺は広いですので、お稽古が終わると、子供達が鬼ごっこをはじめて駆けずり回っています。「仏具を壊すなよ〜。」と心配になりますが、その様子は微笑ましいものです。
そして、お子さんの親御さんの中には、歓喜光童園の卒業生がいるのです。
花吹雪 園児の髪が 白くなり
海福寺第二十四世行雄上人作
桜が舞い散る中、我が子を見守る親御さんが、元園児である。お互い年を重ねていくのだなという姿を私の祖父が詠っています。
「ほとけさま」の教えの中で、育まれていく命。久しぶりに海福寺に子供の声が戻ってまいりました。
海福寺 瀧 沢 行 彦
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